藤沢市高倉にある「恵母地蔵尊」/家族揃って厚木神社に初詣/藤沢の母の実家に集まり親族で新年会

公職選挙法の規定により、新年のご挨拶等の制限があります。政治家はこの法律により、選挙区内の方に喪中葉書は勿論、クジ付き年賀葉書も(クジ無し葉書の年賀状・暑中見舞い・残暑見舞い等も)出すことはできません。年賀状等を頂きました方々には、時期を置いて、活動報告をお送りします。宜しくお願いします。

/本日は、午前中、家族揃って、厚木神社に初詣に参りました。

午後から、藤沢市高倉にある「恵母地蔵尊」(地域では長後の恵母地蔵と呼ばれています)にお参りに参りました。農地解放で土地を手放すまでは、母の父(私の祖父)の生家敷地内にあった我一族の乾守地蔵でした。
私の母方の祖父、渡貫幾治(藤沢市)は、趣味で歴史研究をし、いくつか随筆を出しています。そのうちの一つ「随想・大山街道繁昌記」は、歴史を研究される藤沢の有志の方々により、二度ほど出版されています。この中にも当時、渡貫家屋敷の北西(乾の方)に設置され、渡貫家の乾守りとして信仰されていたものであると記されています。明治40年頃にはイボ神様と呼ばれ、著者であり、私の祖父である渡貫幾治もイボ地蔵として石を積んだとの記載があります。

恵母地蔵尊は、綺麗な服も着せて頂き、地域の皆様に愛されている様子がみてとれます。とても感謝しておりますが、地蔵の傷み具合が気になりました。
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藤沢市HP)「恵母地蔵尊」明和4年(1767)冬、村は不作で江戸でも飢饉がおそい餓死するものが多く、この土地へ逃れてくる人が続きました。ある朝、餓えと寒さで凍死した母親の胸の中で泣く赤ん坊を見つけたお百姓さんが、母親を自家の墓地に埋葬し、その子を成人させ、嫁がせたとのことです。村の講中の人々が、この母の供養のためにお地蔵様を建て、恵母地蔵と名付けました。二百数十年前の話ですが、今もなお訪ねる人が絶えません。
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/これまでもこの本を基にした、歴史講座・歴史勉強会が、藤沢で開かれているようです。(他に「藤沢市史料集36 関東大震災と藤沢(上)Ⅳ『関東大震災 大地震(オオジシン)と筆者(ワタクシ)(渡貫幾治)』[昭和47年]」) 「随想・大山街道繁昌記」は、現在の厚木市の滞在についても詳細に記されています。例えば、大正3年、厚木の町にも電話も無かった頃に黄金井家の水車による自家発電により、電気設備があった事などが記されています。七澤も「ナラサワ」とわざわざふり仮名がふってありますが、七沢の(地元の)人は今でも「ナラサワ」と言います。細かい描写も実際に足を何度も踏み入れなければ記せない記述が多くあります。既に出版されていますが、歴史的にも価値のある記述と考えています。今は亡き私の祖父も、大正3年と5年に当時、玉川村だった小野から七澤に入った時には、自分の孫が厚木市や玉川地区に関わる仕事をするとは夢にも思わなかっただろうと思います。

閑話休題。藤沢市高倉にある乾守「恵母地蔵」にお参りした後は、藤沢の母の実家に集まり、親族で新年会を行いました。明日は、妻の実家(東京・目白)に新年の挨拶に参ります。

【写真】: 藤沢市高倉にある「恵母地蔵尊」/家族揃って厚木神社に初詣/藤沢の母の実家に集まり親族で新年会

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