カテゴリーアーカイブ: 佐藤知一コラム

私にとっての平成はニュージーランドで始まりました。そして、県議会で終わります。

(高校卒業後、NZへ渡航。アジア各国を廻る。その後、スリランカに職業訓練学校設立)

私は、高校を卒業してすぐ(1988年3月)に、18歳でニュージーランドへ渡り、2年間にわたって海外生活を経験しました。昭和天皇陛下崩御の知らせは、ニュージーランドにて知りました。日本においての当時の空気感を私は知りません。
(ニュージーランドでは、就労ビザを取得し、少林寺拳法の指導員をしていました。現地の中学校などにも出向いて教えていました。)

その前後、シンガポール、マレーシア、タイ、台湾、香港等、アジア各国を半年ほどかけて、ひとり、それぞれの国の友人を訪ね バックパッカーとして、各国を廻りました。中国天安門事件直後のアジア各国の華僑の友人を訪ね歩く旅は、それまでの私の価値観をひっくり返すほど、私にとって衝撃でした。

帰国後は、料理屋を営む家業を継ぐ為に 2年間、伊豆の旅館で修業し、調理師となりました。その後、実家に戻り、通算で10年近く、調理師の仕事をして参りました。その間、調理師の仕事をしつつ、スリランカに職業訓練学校をつくる等、国際支援活動もごく小規模でありましたが、形にして参りました。
スリランカでの職業訓練学校設立・運営の活動は、その後の「平成10年度 国際ソロプチミスト日本財団ボランティア表彰(全国表彰)」や「慶應義塾 SFCアワード」「慶應義塾塾長賞(奨励賞)」授賞につながりました。一定の評価を頂きました。
「国際ソロプチミスト日本財団ボランティア表彰(全国表彰)」は、国際ソロプチミスト厚木としては、初の全国表彰であったとお聞きしています。

(市議会選挙落選後、大学進学を決意)

その後、29歳で、初めて厚木市議会議員選挙に挑戦して落選しました。

一人前の調理師にもなれず、政治家にもなれなかった私は、それでも、政治の道をあきらめきれず、一年かけて大学を受験し、30歳で慶応義塾大学総合政策学部に進学しました。政治家になるためには、 必ずしも高校や大学を卒業している必要はありませんが、私は、高校卒業から12年遅れて、大学へ進学し、政治を一から学び直しました。

大学3年時の33歳で、厚木市議会議員選挙に初当選し、今に至ります。当時は、学生議員でありました。12年遅れて、大学に入ったことは、とても新鮮でした。私のまわりの学生たちは、先輩も含めて、ほぼ全て年下で、年下の先生も数人いらっしゃいました。

その後も、世界各地を廻り、厚木市議会副議長時代は、全国市議会議長会から代表として、北方領土への訪問団に加わり、国後島(訪問手続)と択捉島にノービザ渡航をする等の経験をさせて頂きました。

一世を風靡した事業仕分けにも「仕分け人」として、参加させて頂きましたし、慶大卒業後は、そのまま、学生議員となるべく、早稲田大学大学院(アジア太平洋研究科)へ市議会議員の立場で進学しました。大学院に進学し、2年生時には、結婚することができ、二人の子宝にも恵まれました。
気苦労をかけた母を昨年夏に亡くし、今となっては、大した親孝行もできなかったことが、一番の心残りです。

(震災対策と被災地支援)

「阪神淡路大震災」は、我が国における防災対策の大きな分岐点になりました。私も現地入りし、活動を展開しました。必要物資が不足する状況の中、「全国から届く物資」も大阪近郊で滞り、現場にいた誰もが課題を認識しながらも問題を解決するには人手が全く足りない状況でありました。

その後、2004年12月26日、28万人以上の犠牲者を出したスマトラ島沖地震の現場にも入りました。当時私は、調理師の仕事をしながら、スリランカに職業訓練学校を設立・運営する活動をしていました。友人の国務大臣(当時)と共に被災地を廻り、支援等を精力的に行いました。震災や津波被害現場での活動経験が政治を志す原点であり、厚木市議当選後、消防団に市議の立場で入団した理由もそこにあります。市議・県議として、震災と正面から向き合いました。

東日本大震災発災当時、学校を所管する厚木市議会議員(環境教育常任委員長)でした。その後、広域的に活動できる県議を目指し、県議選に挑戦しました。県議当選後は、震災対策と被災地支援・調査研究を所管する常任委員会と特別委員会の両方、且つ、二年間連続して就任し被災地支援に全力であたりました。

(そんな平成が本日 終わります。初心忘るべからず)

そんな平成が、本日で終わります。厚木市長選挙に挑戦し、敗れましたが、その後の県議会議員選挙で当選をさせて頂き、県議会議員として、平成を終えることができました。
明日から、新しい時代「令和」が始まります。新しい仲間たちと共に新たな時代をスタートすることを決めています。

【写真】: 高校を卒業し18歳でニュージーランド渡航/アジア各国を訪問。香港ではデモに/スリランカでは職業訓練学校を設立・運営/大学3年時に厚木市議会初当選/大学院卒業間際に結婚/二人の子宝に恵まれました

『争点隠し』中町2‐2地区に厚木市役所を移転することは問題である

現在、小林市長は、自ら提案し、作った3期12年の多選自粛条例を
自ら破り、4期目への立候補を決めました。私は、これは市民を裏切る行為で、
市民にうそをついたと考えていますが、私は、それ以上に問題だと思っていることがあります。
それは、市長の『争点隠し』です。
私はこれまでも、中町2‐2地区に厚木市役所を移転することは問題であると指摘してきました。
厚木市新庁舎整備基本構想では、県施設を一体整備し、今後適正な場所に配置する施設として、厚木市消防本部(消防署)をあげています。
過日、1月5日の厚木市賀詞交換会では、今後の主な厚木市の事業について示しましたが、この厚木市役所の移転と
厚木市消防本部の機能配置については、全く触れられませんでした。
現状に至るまで、私は、市長の口から説明を聞いていません。
平日の朝夕、週末土日を問わず、慢性的に渋滞をしている本厚木駅前、バスロータリーの横に厚木市消防本部の機能を移転することは、
問題であると考えています。
支署も含めて、厚木市では45分に一回、救急車が出動していますし、つい先日も厚木北地区で、火災も発生しました。
市内で最も浸水に弱いエリアで、渋滞が日常化しているエリアに厚木市役所や厚木市消防本部を移転させることは、災害時、市民の命にかかわる重大なことです。
市長は、選挙戦を通じて、市民に対し、しっかりと説明をするべきと考えています。

世代交代「厚木のかさぶたを剥がす」

=世代交代「厚木のかさぶたを剥がす」=

もう数か月で平成が終わります。平成の時代は、昭和を引きずった30年間でした。
私は、今回の厚木市長選挙への立候補を表明しましたが、私が立候補しなければ、私たち親の世代3名による市長選となりました。

「色を重ねると黒くなる」と言いますが、私は、世代交代を実現することで、「厚木のかさぶたを剥がしたい」と思っています。
厚木市には、30代40代のピカピカしている人材が沢山居ます。しかしながら、今は、市のトップが重たくて、全くものが言えません。
市長が世代交代することで、ピカピカの人材が台頭し、厚木市は生まれ変わります。

私は、厚木市の現状は衰退していると感じています。
市内で一番発展して賑やかな本厚木駅前ですら、元気がなく、若い人が買い物をしたくなるような店も少なく、一番街以外は、シャッター通り商店街で元気がありません。
厚木市の優れた点を挙げると、「都心まで1時間程度」と言われるだけで、市そのものの魅力が上がってきません。私は、活気のある町にしたいと心から思っています。

私はこれまでも、「常識にとらわれない」選挙活動、政治活動を行ってきました。新しい視点から、高齢者を町全体で受け入れる仕組みづくりを提案しています。毛利台団地、森の里団地、鳶尾団地といったオールドニュータウンに福祉と雇用と仕事を産む地域再生です。
応援して下さい。

第20回 星槎国際高等学校 入学式挨拶/4年まえ 2015/03/08 に公開のメッセージ

第20回 星槎国際高等学校 入学式挨拶(写真は、第19回 入学式挨拶)

二つ目の動画は、2015/03/08 に公開のメッセージです。

※ リクエスト頂きましたので、この動画を先頭にて公開しています。

亡母 榮子は、去る8月20日に 他界致しました。享年75歳。生前の御厚誼に改めて心より厚く御礼申し上げます。

亡母 榮子は、去る8月20日に 他界致しました。享年75歳でした。生前の御厚誼に改めて心より厚く御礼申し上げます。
通夜・葬儀ならびに告別式につきましても、8月24日・25日に執り行われ、無事、荼毘に付すことができましたことを報告させていただきます。

今はまだ、気持ちの整理ができていません。親兄弟と話し合い、今回は、家族葬に準ずる形で、近親者のみにて、葬儀を執り行うことと致しました。
藤沢から厚木に嫁いで50年が経つ母でありますので、生前お世話になっていた方も大変多くいます。この形式が、本当に良かったのかは、判りませんが、母には、私の仕事を含め、公私のない生活の中で、大変苦労をかけました。せめて、最後だけは、近しいもので見送りたいとの想いで、最後のわがままとさせて頂きました。
御理解いただきたいと思います。

以下は、親族を代表しての私のあいさつ文(概略)です。
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長男の知一でございます。
喪主である父に成り代わりまして、一言、ご挨拶を申し上げます。
本日は、御多忙中にもかかわらず、故・佐藤榮子の通夜式に、ご弔問いただきまして誠にありがとうございます。
母は、生前、ミシンを使って、自分の洋服を縫い上げたり、着物の着付けであるとか、うたを歌うことが、好きでありました。しかしながら、日常的には、これといった趣味もなく、ただ黙々と働いているといった人生でありました。
もっと好きな事をさせてやっていたらと、今更ながら後悔をしています。

思えば、長男としての私は、母には、苦労を掛け通しでありました。高校を卒業してすぐ、18歳で単身、海外へ渡り、その後、調理師とはなるものの、しっかりと家業を継ぐ決意もないまま、中途半端に働いていました。
その後、29歳の若さで市議会議員選挙に立候補したものの、落選し、30歳にして仕事を辞し、大学に進学するなど、母には、本当に苦労を掛けました。
それでも、どんな時も、母は、無条件に私の活動を精一杯、応援してくれました。
私が33歳で、市議会議員に初当選し、その後、35歳で妻と結婚をしたころから、母は、精神的にも、肉体的にも、体調を崩し始めました。私には、不相応なくらいの妻とであい、出来の悪い長男である私が、やっと自立するめども立ち、家を出て、手を離れたと安心したことで、それまで、無理に無理を重ねてきた身体が、悲鳴を上げたのだと思っています。
母と父がつくりあげた店は、弟が継承し、弟の子供たちも、もうすぐ社会にでるという矢先でもありました。
母が、体調を崩し、12年近くが経ちますが、その間、私たち夫婦は、2人の子供たちに恵まれました。
これからは、弟の子ども達を含め、母の孫たち4人の成長を見守ってもらいたいと強く、願っていました。

ここ数年は、母の体調も悪化し、心肺機能もさらに低下し、酸素ボンベを24時間、つける生活となりました。外出も可能でしたが、酸素ボンベを引きずっての外出となり、一泊二日の旅行ですら億劫になりました。
近頃では、近所への買い物、炊事・洗濯も含め、自宅での家事一切も、仕事から帰ってきた父親が、代わりに行うという生活でありました。今月行われた厚木市最大のお祭り、あつぎ鮎まつりの時には、私のオープニングテープカットとパレードを見るために、酷暑と言われるような非常に強い日差しの中、マンションの一階まで、降りてきて、私の姿を見に来てくれましたが、それ以外は、外出する気力も目に見えて、少なくなっていました。
そうした中、日常見える環境を少しでも変えてもらおうと、父と一泊二日の温泉旅行を計画していました。
業者さんに頼んで、酸素ボンベを事前に宿泊先の旅館に届けて頂く調整をしながら、計画をしたものです。

そんな矢先、母は、旅立ちました。今はまだ、気持ちの整理ができていません。親兄弟と話し合い、今回は、家族葬に準ずる形で、近親者のみにて、葬儀を執り行うことと致しました。
母が生前お世話になっていた方も多くいる中、この形式が、本当に良かったのかは、判りませんが、母には、私の仕事を含め、公私のない生活の中で、大変苦労をかけました。
せめて、最後だけは、近しいもので見送りたいとの想いで、最後のわがままとさせて頂きました。

最後になりましたが、皆様方にこれからも、故人、生前と変わりないご厚情を賜りますよう、心よりお願い申し上げます。
簡単でございますが、これをもちましてお礼の挨拶にかえさせて頂きます。
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20180820

 

8月5日、県議会同期だった国会議員の結婚式に参列しました。

8月5日、県議会同期だった国会議員の結婚式に参列しました。この友人は、私よりも一回り若く、政治経験も私よりだいぶ短い。
今回の結婚式で、私は、ひとつ気づかされたことがあります。私たち地方議員は「今の人は、議員は、誰がなっても一緒だ。と政治を諦めている。」と思っていたけれど、実は、政治を諦めていたのは「私達、政治に携わるものだったのではないのか。」ということです。

「政治家は、世の中のルールを変えられる存在。その力は、社会で苦しむ人、困っている人みんなの生活を良くするために使うべきだ」「負け組と呼ばれている人を勝ち組に出来るようにルールを変更したり、つくる事ができる」という彼の言葉はシンプルですが、日々現実と向き合う中で、もう一度、私が意識して行動するために必要な言葉だと強く認識しました。

中谷一馬君、友美さん、ありがとう。
そして、末永くお幸せに。

本日は、自宅にて執務/共生社会の実現について

本日は、自宅にて執務に就いています。
県庁執務室の職員さんとのやり取りやタウンニュースの原稿作成等は、電子メールを活用しています。いわゆるテレワークの実践です。

閑話休題。
「男は愛する女の最初の男になる事を願い、女は愛する男の最後の女になる事を願う」「男の顔はその人の自伝であり、女の顔はその人の創作である」「知る価値があることで人に教わることができるものはひとつもない」「自分らしくあれ。ほかの人の席はすでに埋まっているのだから」等々の名言を残した著名な作家、オスカー・ワイルドは、同性愛のために投獄されて、その後、亡くなられました。
オスカー・ワイルドは、森鴎外、夏目漱石、芥川龍之介、谷崎潤一郎といった日本の作家にも大きな影響を与えた偉大な作家です。

LGBTの方は、特に文化・芸術の方面に秀でた才能を持つ人も多くいます。
ファッション業界やバレエ、音楽・・・。
音楽もロック歌手だけではなく、誰もが知っているクラシックの巨匠にも沢山います。

もちろん、LGBT以外の方々のほうが、絶対数は多いでしょうが、LGBTの方々の存在なくして、文化・芸術は語れないのは、事実です。
ちなみに、電通 ダイバーシティ・ラボのLGBT調査2015によると、7.6%がLGBT層になるというデータが公表されています。(7%であれば、左利きや血液型AB型とほぼ同じ比率)

LGBTは、性的自認・志向の問題なので、障害者ではありませんが、(同じように社会でハンディキャップをもつ、)障害者の存在も、多様性社会を実現していく上では、同じくらい欠かせません。
私は、知的障害者だった家族と共に育ったことで、社会の多様性を知りました。知的障害者だった彼女からも、多くの価値観について、教えてもらったことは、今の仕事にも大きな影響を与えています。
むしろ、彼女の存在なくしては、今の仕事に就いて居なかったともいえます。

誰の発言がいいとか、悪いとかは、横に置いても、
「共生社会の実現」は、まだ少し遠いな。と、ちょっと思いました。

オガール紫波・オガールプロジェクト現地調査・視察/メリハリの効いた公共施設/デザインこそ追及ポイント/コストを削ってもダサくしてはダメ/補助金に頼らない

本日は、午前・午後共に「岩手県紫波町のオガールプロジェクト」の視察をさせて頂きました。オガールプロジェクトは、オガールベース株式会社、オガールプラザ株式会社、オガールセンター株式会社、紫波グリーンエネルギー株式会社等々、別会社組織としているため、午前・午後共に説明者の皆様も受け入れ施設も異なっています。

年間270を超える視察を受け入れる自治体施設(圧倒的に全国一)ということで、本日も、午前の視察は、「地域社会での自然エネルギー発展可能性の研究」をされている別府大学の阿部博光教授とご一緒させて頂きました。午後は、私達の他に二つの自治体職員・関係者の皆様と共に視察をするという県政調査においては、珍しい経験をさせて頂きました。

午後は、主にオガール紫波株式会社 八重島雄光取締役にご説明・ご案内頂きました。人口3万4000人弱の町の駅前施設に年間80万人超(一般市民を入れると優に100万人を超えるとのこと)の人が集まる施設です。岩手県紫波町のオガールプロジェクトの構想を描いた中心人物が、オガールプラザおよびオガールベース代表取締役の岡崎正信氏です。「消費を目的としない人を集める」「補助金に頼らない」という従来の常識からかけ離れたまちづくりのコンセプトが私たちにとっては、非常に新鮮で、まさに目から鱗の発想です。

本日午後に視察をしたオガールベースは、「日本初の国際規格をクリアしたバレーボール専用アリーナ」「補助金に頼らない経営」「役場、オガールタウン等と連動した日本初の地域熱供給システム」「駅、役場、オガールプラザ等と連携した複合多機能施設」であります。

【メリハリの効いた公共施設】
日本初のバレーボール専用アリーナは、「国際大会で使用されるフランス製の床材(タラフレックス)を採用しています。ジャンプしてからの着地や、走行時の衝撃などから、選手の怪我を防止するということで、国際大会では「タラフレックス」は常識というよりも、絶対条件であるとのことです。また、大型スクリーンが常備され身体パフォーマンスをすぐに確認できるという設備がある一方で、観客席はなく、配管もむき出しです。こうしたメリハリの効いた施設だからこそ、全日本クラスが、ここを練習場に選びます。全日本クラスのトッププレイヤーが合宿を行うということは、アマチュアや子供たちも含めて、日本国中のプレイヤーもこの施設を目指します。

【デザインこそ追及ポイント/コストを削ってもダサくしてはダメ】
この施設を創るにあたって、一番の訴求ポイントはデザインであったそうです。まず最初に専門家を集めて「紫波町オガール・デザイン会議」をつくり、オガール地区のデザインガイドラインを定めました。

紫波町を中心とした半径30km内には、60万人の人が住んでいます。この都市圏の中で、「あそこに行きたい」と思えるような場所とする必要があるし、「ダサいところには、人は集まらないし、住みたいとも思わない」とのことでした。
「田舎にこそ街が必要だ。」というのは、環境景観にこだわり、田んぼの中の北斎美術館で有名な長野県小布施町長の名言ということでありますが、駅前に広がる空間は、イメージ戦略の一環でもあり、同僚の米村議員曰く、「都会にも匹敵する奇麗な街空間(佐藤のうろ覚えですが)」との感想を持たれていました。
まちづくりにおいて、「ダサいのはダメ」という観点は、とても重要なことで、私自身も、非常に強く思っています。

「それぞれの建物、一つ一つのサイン、個性はありつつ、統一感のあるまち。(デザイン会議  佐藤直樹委員)」

【デパートや工場の誘致はしないし、むしろ要らない】
商業による集客というのは普遍的な集客でありません。紫波町に住んでいる人たちは、平気で、何のためらいもなく盛岡に買い物に行きます。アマゾンでも買うわけです。
「地元の駅前だから買おう」ということは、基本的にはない。ただ、小売りのマーケットが大きくならなければ不動産の価値は上がらない。
必要なものは「人気」です。そのために必要なものは、普遍的な集客装置、つまり、どんな時代になっても必ずここに人が集まるという仕掛けである。
普遍的な集客装置とは、消費を目的としないパブリックな場のことです。オガール紫波には、紫波町には図書館と役場庁舎の設置・移転を依頼し、岩手県フットボールセンターを誘致した。
「普遍的な集客装置をつくって人が集まれば、おのずとカフェ、居酒屋、ギャラリー、ショップなどのサービス業がそこに投資をするはずです。商業やサービス産業が生まれてくれば、おもしろい人や訪問者が増え、エリアにお金が落ちる。そして地域の不動産価値が上がっていく。そんな循環を意識しました」
「オガールプラザという建物の主たるコンテンツは図書館です。図書館に様々な人が集い、これがテナントの利益につながり、オガールにテナント料が入ることで、地代と固定資産税が紫波町に支払われるという循環ができてくる。」
「図書館というのは、非採算で、しかも維持費の高い公共事業です。だから町の財政が危うくなったときには真っ先に閉鎖が検討される。だからこそ「稼ぐ」という発想を持って取り組まなくてはいけない」とのことでした。

【補助金に頼らない】
2001年1月に第三セクター企業「青森駅前再開発ビル」の運営する複合商業ビルとして開業した青森駅前の青森市の「アウガ」は、その後、経営破綻しました。青森市はアウガの公共施設化に伴い、地権者床を青森市が買い取り、青森市に対する「青森駅前再開発ビル」の債務は、土地と建物で代物弁済させ、アウガは土地・建物ともに青森市の所有としました。
例えば、60億円のうち、補助金を40億円確保できたら、40億円をフルに使い、その後のランニンコストを考えず、稼働率の見積もりも甘いまま、空きテナントが目立つ立派な施設を建設するのが、これまで多くみられた公共事業の失敗でした。
(視察においては、経営破綻した青森市のアウガのほか、経営破綻はしていませんが、行政主導で行った再開発事業の 盛岡駅前のマリオス、秋田駅近くのエリアなかいち についても、かなり苦戦している旨、指摘されていました。)

オガール紫波は、想定した9つのテナントが入居してくれる賃料を先に聴取し、その上で、東北銀行からは10年間で返済を完了するという条件で、民間都市開発推進機構(MINTO機構)からは10年以内に配当を出すことを条件に融資を引き出しました。
金融機関の厳しい融資条件を満たすために、オガールプラザをコストが安く償却期間も圧縮できる木造建築にして、10年以内に配当を出すことを優先したとのことでもありました。
民間の商業施設部分にはシビアな事業計画が求められるわけです。こうした考え方は、公民連携であっても、公共事業においては、ありませんでした。
先に賃料についてのヒアリングをしているので、テナントも無理なく出店してくれますし、収益の計画も修正することがありません。事業化できるかどうかの判断により、当初、3階建ての木造建築としたかったけれども、2階建てにしたということでした。健全経営には、必要不可欠な判断基準です。

「稼ぐインフラ。身の丈に合った規模で造り、稼ぐ仕組みをきちんと考える。(オガールプラザ株式会社 代表取締役 岡崎正信)」

今回のオガール紫波の県政調査は、大変勉強になりましたし、今後の議会質問においても、活かして参ります。

【写真】: オガール紫波・オガールプロジェクト現地調査・視察の様子

【写真】:政治を志した29歳の私。 あれから19年。 早いものです。政治の原点、志を忘れぬよう、 これからも頑張ります。

政治を志した29歳の私。
あれから、19年。
早いものです。

政治の原点、志を忘れぬよう、
これからも頑張ります。

「かとう写真館」スタジオで撮影しました。
カメラマンの加藤芳明さんは、父の同級生で、私の日大藤沢高校の大先輩です。今も大変よくして頂いています。

藤沢市高倉にある「恵母地蔵尊」/家族揃って厚木神社に初詣/藤沢の母の実家に集まり親族で新年会

公職選挙法の規定により、新年のご挨拶等の制限があります。政治家はこの法律により、選挙区内の方に喪中葉書は勿論、クジ付き年賀葉書も(クジ無し葉書の年賀状・暑中見舞い・残暑見舞い等も)出すことはできません。年賀状等を頂きました方々には、時期を置いて、活動報告をお送りします。宜しくお願いします。

/本日は、午前中、家族揃って、厚木神社に初詣に参りました。

午後から、藤沢市高倉にある「恵母地蔵尊」(地域では長後の恵母地蔵と呼ばれています)にお参りに参りました。農地解放で土地を手放すまでは、母の父(私の祖父)の生家敷地内にあった我一族の乾守地蔵でした。
私の母方の祖父、渡貫幾治(藤沢市)は、趣味で歴史研究をし、いくつか随筆を出しています。そのうちの一つ「随想・大山街道繁昌記」は、歴史を研究される藤沢の有志の方々により、二度ほど出版されています。この中にも当時、渡貫家屋敷の北西(乾の方)に設置され、渡貫家の乾守りとして信仰されていたものであると記されています。明治40年頃にはイボ神様と呼ばれ、著者であり、私の祖父である渡貫幾治もイボ地蔵として石を積んだとの記載があります。

恵母地蔵尊は、綺麗な服も着せて頂き、地域の皆様に愛されている様子がみてとれます。とても感謝しておりますが、地蔵の傷み具合が気になりました。
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藤沢市HP)「恵母地蔵尊」明和4年(1767)冬、村は不作で江戸でも飢饉がおそい餓死するものが多く、この土地へ逃れてくる人が続きました。ある朝、餓えと寒さで凍死した母親の胸の中で泣く赤ん坊を見つけたお百姓さんが、母親を自家の墓地に埋葬し、その子を成人させ、嫁がせたとのことです。村の講中の人々が、この母の供養のためにお地蔵様を建て、恵母地蔵と名付けました。二百数十年前の話ですが、今もなお訪ねる人が絶えません。
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/これまでもこの本を基にした、歴史講座・歴史勉強会が、藤沢で開かれているようです。(他に「藤沢市史料集36 関東大震災と藤沢(上)Ⅳ『関東大震災 大地震(オオジシン)と筆者(ワタクシ)(渡貫幾治)』[昭和47年]」) 「随想・大山街道繁昌記」は、現在の厚木市の滞在についても詳細に記されています。例えば、大正3年、厚木の町にも電話も無かった頃に黄金井家の水車による自家発電により、電気設備があった事などが記されています。七澤も「ナラサワ」とわざわざふり仮名がふってありますが、七沢の(地元の)人は今でも「ナラサワ」と言います。細かい描写も実際に足を何度も踏み入れなければ記せない記述が多くあります。既に出版されていますが、歴史的にも価値のある記述と考えています。今は亡き私の祖父も、大正3年と5年に当時、玉川村だった小野から七澤に入った時には、自分の孫が厚木市や玉川地区に関わる仕事をするとは夢にも思わなかっただろうと思います。

閑話休題。藤沢市高倉にある乾守「恵母地蔵」にお参りした後は、藤沢の母の実家に集まり、親族で新年会を行いました。明日は、妻の実家(東京・目白)に新年の挨拶に参ります。

【写真】: 藤沢市高倉にある「恵母地蔵尊」/家族揃って厚木神社に初詣/藤沢の母の実家に集まり親族で新年会