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「ラグビーワールドカップ2019」の開幕まで3か月を切りました/「ラグビーワールドカップの決勝戦を神奈川県で引き受けるべき」と最も早く公式に発言したのが佐藤知一です

「ラグビーワールドカップ2019」の開幕まで、3か月を切りました。(RWC 2019まで あと02ヵ月29日18時間

この大会は、アジアで初めて日本で開催されるもので、決勝、準決勝を含む7試合が、神奈川県の横浜国際総合競技場で行われます。世界中から来る選手をはじめ、観戦者にとっても 最高の大会としなければなりません。今後も、日本代表戦のパブリックビューイングなどのイベント、シティドレッシングなど県民の皆様に関心を持っていただける取組みを進め、全力で機運を盛り上げるよう努めて参ります。

私は、神奈川県と横浜市が共同で開催都市に立候補したということであって、共同で立候補した時から、所管の常任委員会に所属し、その後も東京オリンピック・パラリンピック・ラグビーワールドカップ特別委員会 の委員として、この事業に一貫して関わってきました。

平成26年(2014年)12月18日の神奈川県議会 総務政策常任委員会では「当時、デザインや費用の面で建て替えが遅れ気味であった新国立競技場においては、万一のことがあれば、7万2,000人収容の日産スタジアム 横浜国際総合競技場で『決勝戦を引き受ける』という気概を持って準備をするべきだ」と質疑をしたところ、
「開幕戦と決勝戦は新国立競技場での開催を予定している 」「(新国立競技場は)2019年のラグビーワールドカップに間に合わせるということが整備の大前提。8万人規模のスタジアムとして再整備をしていくと認識している」という企業連携担当課長(現在はスポーツ課長が担当)の答弁でした。

※ その後、2015年9月28日、ラグビーワールドカップ決勝戦を横浜国際総合競技場(開催都市:神奈川県・横浜市)での開催決定が発表されました。

「ラグビーワールドカップの決勝戦を神奈川県で引き受けるべき」と最も早く公式に発言したのが私(自称)ですが、今期は、団長の計らいもあり、ラグビーワールドカップを所管する。国際文化観光・スポーツ常任委員会に所属をさせて頂きました。しっかりと取り組んで参ります。

横浜国際総合競技場では、決勝・準決勝を含む計7試合を予定しています

一昨日の楠梨恵子議員 代表質問を通じて感じたこと諸々/ともに生きる社会の実現に向けて 他

一昨日の楠梨恵子議員の代表質問 通告した質問項目は、以下の通りです。

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1 人生100歳時代を見据えたコミュニティ再生のあり方について
2 ともに生きる社会の実現に向けて
– (1) 障がい者の高齢化に伴う支援について
– (2) 外国人労働者の受入れに向けた県の取組について
– (3) 県立高校における外国につながりのある生徒への支援について
3 国内観光客の誘致に向けた戦略的な取組について
4 県道の災害情報などをSNSで発信することについて
5 セーリング競技の機運醸成について
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代表質問は、県議団を代表してのものであります。質問の一つ一つは、厚木市にもかかわるものであり、私の問題意識と重なるものであります。私がこれまで、二期8年間にわたり、県議会で取り組んできたことの延長で、現在の3期目となっておりますが、3期目は、新しい仲間たちと共に取り組んで参ります。

今回の代表質問では、「外国人労働者の受入れに向けた県の取組」「外国につながりのある生徒への支援」「国内観光客の誘致に向けた戦略的な取組」「災害情報などをSNSで発信」「東京オリンピックに向けたセーリング競技の機運醸成」等については、私の所管する国際文化観光スポーツ常任委員会にかかわる課題であります。

特に ラグビーワールドカップ2019 や東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会の機会を捉え、神奈川発の魅力的なコンテンツの創出と発信を行い、そうしたコンテンツの担い手となる人材を育成するとともに、地域のにぎわいの創出に私も所管常任委員会委員として努めて参ります。

多言語支援センターかながわの運営については、本日の代表質問 知事答弁にもありましたが、今月より、対応言語を新たに5言語を追加し、現在は、やさしい日本語を含めた11の言語で対応をしているとのことです。
現在、質問の準備に取り掛かっておりますが、本日の代表質問に引き続き、私の所管する国際文化観光スポーツ常任委員会の他、機会を捉えて取り組んで参ります。

/2016年(平成28年)7月26日未明、神奈川県相模原市緑区千木良476番地にある、神奈川県立の知的障害者福祉施設「津久井やまゆり園」に、元施設職員の男(犯行当時26歳)が侵入し、所持していた刃物で入所者19人を刺殺し、入所者・職員計26人に重軽傷を負わせた大量殺人事件、津久井やまゆり園事件から、来月で3年となります。
この事件においての殺害された被害者数19人は、第二次世界大戦(太平洋戦争)後の日本で発生した殺人事件としてはもっとも多く、戦後最悪の大量殺人事件として、福祉の現場のみならず日本社会に衝撃を与えました。

その後(2,019年6月1日)、元農林水産省の事務次官(76)が自分の息子を殺害したと警察に自首した事件がありました。容疑者によると被害者である息子は普段から自宅にひきこもっていることに加え、家庭内暴力を振るっていたとされています。
5月28日、小学生16人と男女2人の計18人が死傷する通り魔殺人事件が起きました。(犯人は川崎市内に住む51歳の男で、自ら首を切って自殺)
このことから「息子を殺人犯にしないための親心」等とネットを中心に被害者を擁護する声も多く散見され、テレビコメンテーターも「やったことは絶対的に悪いが、気持ちはわかる」と複数の方がコメントしています。

~以下、Wikipediaから一部引用~
1、1967年8月7日、生まれてから27年間、心身障害で寝たきりの息子を父親が絞殺し、心中を図った事件があった(心身障者安楽死事件)。一命を取り留めた父親は妻(被害者の母親)と共に自首しメディアでは、障害者施設が無いゆえの悲劇として同情的に報じられ、身障児を持つ親の会、全国重症心身障害児を守る会などが減刑嘆願運動を行いました。その結果、父親は心神喪失を理由に「無罪」となった。

2、1970年5月29日、神奈川県横浜市で母親が介護を苦にして、脳性麻痺者の我が子を絞殺した事件。この事件でも母親に同情的な立場から、減刑や無罪放免運動が起こった。結果として、母親は有罪となったが、懲役2年の求刑に対し執行猶予3年と、殺人事件としては非常に軽い量刑であった。
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この二つ事件は、私が生まれ年(1970年)頃であり、すでに50年近く経ちます。
当時、1970年に障害児を殺害した母親への減刑嘆願が起こったときに、「異議を申し立てた」一人に脳性マヒ障害者の横田弘さんが居られます。

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マスコミは障害児を抱えた家庭を「不幸」であるように報じていること。その「不幸」を報じることで世間に生まれるのは、自分の隣にいるかもしれない障害児への想いではなく、「自分が障害児を生まなかったことへの『しあわせ』」であるということ。その報じ方の中に、障害者を抹殺していく論理が隠されていること。障害児を持つ家族が社会から疎外され、それが障害児殺しにつながったのではないか、ということ。障害児殺しの事件が起きてから減刑運動をはじめ、それが善いことであるように振る舞う人がいるが、なぜ事件が起きる前に、障害児とその家族が穏やかな生活を送れるような温かい態度がとれなかったのか。
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この言葉は重く、知的障害の家族と共に育った私は、今に至るまで、こうした社会にある矛盾を強く感じています。
誤解を恐れずに言えば、50年前と何も変わっていないのではないか、ナチスの重度障害者を抹殺した優生学的思想に対しても多くの人が理解しているのではないかという恐怖を感じてます。

/津久井やまゆり園事件を検索すると「出生前診断を受け、9割が中絶を選択」といった記事も併せて抽出されます。
私たち夫婦は(同じ年齢)、35歳で結婚し、特定不妊治療を経て40歳で長男、43歳で長女を授かりました。高齢出産(高齢初産婦)ですから、染色体異常や胎児の障害のリスクが高くなると言われておりました。

妊婦の年齢が高齢ということは、卵子も高齢であり、卵子が年をとっている分、ダウン症やその他の染色体異常にもかかる率が高いと言われています。妊婦さんの年齢が20歳では約1500人に1人の割合ですが、30歳になると約1000人に1人、35歳だと約400人に1人、40歳では約100人に1人、45歳になると約30人に1人の割合でダウン症の子が生まれます。

閑話休題。当時は、染色体異常を知る「絨毛検査」「羊水検査」という方法が用いられていましたが、胎児が亡くなる危険性(1%未満)もあると聞いておりました。当時は、夫婦で話し合い、染色体異常検査は受けないことを選択しました。

2013年に採血するだけで胎児の死亡リスクがない「新型出生前診断」が登場しました。結果として、出生前診断を受ける人は、この10年間で2倍以上まで増加したとのことです。
ある記事によれば、2013年4月~2018年9月の間に「新型出生前診断」を受けた人は約6万5000人に上る。出生前診断によって胎児の染色体異常が確定した886人のうち中絶を選択したのが819人と、実に9割以上が中絶を選択しているとのことです。

私たちは、障害の有無に関わらず共に生きることができる社会を目指して、共生憲章(ともに生きる社会かながわ憲章)をつくりました。前述、長く記した通り、簡単には割り切れないことも多く、実現は簡単ではありません。

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ともに生きる社会かながわ憲章

この悲しみを力に、ともに生きる社会を実現します
平成28年7月26日、県立の障害者支援施設である「津久井やまゆり園」において19人が死亡し、27人が負傷するという、大変痛ましい事件が発生しました。
この事件は、障がい者に対する偏見や差別的思考から引き起こされたと伝えられ、障がい者やそのご家族のみならず、多くの方々に、言いようもない衝撃と不安を与えました。
私たちは、これまでも「ともに生きる社会かながわ」の実現をめざしてきました。
そうした中でこのような事件が発生したことは、大きな悲しみであり、強い怒りを感じています。
このような事件が二度と繰り返されないよう、私たちはこの悲しみを力に、断固とした決意をもって、ともに生きる社会の実現をめざし、ここに「ともに生きる社会かながわ憲章」を定めます。

一 私たちは、あたたかい心をもって、すべての人のいのちを大切にします
一 私たちは、誰もがその人らしく暮らすことのできる地域社会を実現します
一 私たちは、障がい者の社会への参加を妨げるあらゆる壁、いかなる偏見や差別も排除します
一 私たちは、この憲章の実現に向けて、県民総ぐるみで取り組みます

平成28年10月14日     神奈川県
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※ 神奈川県議会では、平成28年7月26日の事件発生後、厚生常任委員会等を臨時開催し、現地調査を実施するなど審議を行って参りました。第3回定例会初日平成28年9月8日の本会議では、冒頭、黙とうを捧げるとともに「県立津久井やまゆり園で発生した事件の再発防止と共生社会の実現を目指す決議」を全会一致で可決しました。
その後、本会議の代表質問や予算委員会での知事答弁、さらには厚生常任委員会等での審議を経て、10月13日には本会議を臨時開催し、知事から「ともに生きる社会かながわ憲章」が提案され、10月14日の本会議において全会一致で可決したものです。


【動画投稿】県議会議員 さとう知一(調理師・野菜ソムリエ)の きょうの料理 vol.2 ~牛肉とズッキーニ・じゃが芋・舞茸炒め/蕪の味噌汁編~

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県議会議員 さとう知一(調理師・野菜ソムリエ)の
きょうの料理 vol.2 ~牛肉とズッキーニ・じゃが芋・舞茸炒め/蕪の味噌汁編~
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ベータ版・その2
※ 途中で、フォーカスがブレますが、少し経つと戻ります。牛肉ブロックは米国産で30%引き商品でした。動画で言うのを忘れました。

【動画投稿】県議会議員 さとう知一(調理師・野菜ソムリエ)の きょうの料理 ~野菜サンドイッチ編~

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県議会議員 さとう知一(調理師・野菜ソムリエ)の
きょうの料理 ~野菜サンドイッチ編~
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過日の さとう知一事務所「選挙お疲れ様会」で、ネット選挙の神様として知られる高橋ヨロン茂さんから、次のようなことを言われました。

(高橋ヨロン茂):「実は、元調理師で野菜ソムリエの佐藤さんの料理人としての動画を次々に作成して配信する。4年かけて、じっくりと動画を作って配信していくことをやったらどうか。とずっと思っている」といった趣旨のことでした。

高橋ヨロンさんは、私のネット選挙のアドバイザーですので、貴重なアドバイスは「即実行する!」ということで、タウンニュース原稿の締め切りが迫る中、準備をし、校了を待って動画を撮りました。
きちんとした機材もなく、電気釜を三脚代わりにして、私の安いデジカメで撮りましたので、もろもろ、綺麗ではありませんが、せっかくですのでベータ版として配信します。

私にとっての平成はニュージーランドで始まりました。そして、県議会で終わります。

(高校卒業後、NZへ渡航。アジア各国を廻る。その後、スリランカに職業訓練学校設立)

私は、高校を卒業してすぐ(1988年3月)に、18歳でニュージーランドへ渡り、2年間にわたって海外生活を経験しました。昭和天皇陛下崩御の知らせは、ニュージーランドにて知りました。日本においての当時の空気感を私は知りません。
(ニュージーランドでは、就労ビザを取得し、少林寺拳法の指導員をしていました。現地の中学校などにも出向いて教えていました。)

その前後、シンガポール、マレーシア、タイ、台湾、香港等、アジア各国を半年ほどかけて、ひとり、それぞれの国の友人を訪ね バックパッカーとして、各国を廻りました。中国天安門事件直後のアジア各国の華僑の友人を訪ね歩く旅は、それまでの私の価値観をひっくり返すほど、私にとって衝撃でした。

帰国後は、料理屋を営む家業を継ぐ為に 2年間、伊豆の旅館で修業し、調理師となりました。その後、実家に戻り、通算で10年近く、調理師の仕事をして参りました。その間、調理師の仕事をしつつ、スリランカに職業訓練学校をつくる等、国際支援活動もごく小規模でありましたが、形にして参りました。
スリランカでの職業訓練学校設立・運営の活動は、その後の「平成10年度 国際ソロプチミスト日本財団ボランティア表彰(全国表彰)」や「慶應義塾 SFCアワード」「慶應義塾塾長賞(奨励賞)」授賞につながりました。一定の評価を頂きました。
「国際ソロプチミスト日本財団ボランティア表彰(全国表彰)」は、国際ソロプチミスト厚木としては、初の全国表彰であったとお聞きしています。

(市議会選挙落選後、大学進学を決意)

その後、29歳で、初めて厚木市議会議員選挙に挑戦して落選しました。

一人前の調理師にもなれず、政治家にもなれなかった私は、それでも、政治の道をあきらめきれず、一年かけて大学を受験し、30歳で慶応義塾大学総合政策学部に進学しました。政治家になるためには、 必ずしも高校や大学を卒業している必要はありませんが、私は、高校卒業から12年遅れて、大学へ進学し、政治を一から学び直しました。

大学3年時の33歳で、厚木市議会議員選挙に初当選し、今に至ります。当時は、学生議員でありました。12年遅れて、大学に入ったことは、とても新鮮でした。私のまわりの学生たちは、先輩も含めて、ほぼ全て年下で、年下の先生も数人いらっしゃいました。

その後も、世界各地を廻り、厚木市議会副議長時代は、全国市議会議長会から代表として、北方領土への訪問団に加わり、国後島(訪問手続)と択捉島にノービザ渡航をする等の経験をさせて頂きました。

一世を風靡した事業仕分けにも「仕分け人」として、参加させて頂きましたし、慶大卒業後は、そのまま、学生議員となるべく、早稲田大学大学院(アジア太平洋研究科)へ市議会議員の立場で進学しました。大学院に進学し、2年生時には、結婚することができ、二人の子宝にも恵まれました。
気苦労をかけた母を昨年夏に亡くし、今となっては、大した親孝行もできなかったことが、一番の心残りです。

(震災対策と被災地支援)

「阪神淡路大震災」は、我が国における防災対策の大きな分岐点になりました。私も現地入りし、活動を展開しました。必要物資が不足する状況の中、「全国から届く物資」も大阪近郊で滞り、現場にいた誰もが課題を認識しながらも問題を解決するには人手が全く足りない状況でありました。

その後、2004年12月26日、28万人以上の犠牲者を出したスマトラ島沖地震の現場にも入りました。当時私は、調理師の仕事をしながら、スリランカに職業訓練学校を設立・運営する活動をしていました。友人の国務大臣(当時)と共に被災地を廻り、支援等を精力的に行いました。震災や津波被害現場での活動経験が政治を志す原点であり、厚木市議当選後、消防団に市議の立場で入団した理由もそこにあります。市議・県議として、震災と正面から向き合いました。

東日本大震災発災当時、学校を所管する厚木市議会議員(環境教育常任委員長)でした。その後、広域的に活動できる県議を目指し、県議選に挑戦しました。県議当選後は、震災対策と被災地支援・調査研究を所管する常任委員会と特別委員会の両方、且つ、二年間連続して就任し被災地支援に全力であたりました。

(そんな平成が本日 終わります。初心忘るべからず)

そんな平成が、本日で終わります。厚木市長選挙に挑戦し、敗れましたが、その後の県議会議員選挙で当選をさせて頂き、県議会議員として、平成を終えることができました。
明日から、新しい時代「令和」が始まります。新しい仲間たちと共に新たな時代をスタートすることを決めています。

【写真】: 高校を卒業し18歳でニュージーランド渡航/アジア各国を訪問。香港ではデモに/スリランカでは職業訓練学校を設立・運営/大学3年時に厚木市議会初当選/大学院卒業間際に結婚/二人の子宝に恵まれました

『争点隠し』中町2‐2地区に厚木市役所を移転することは問題である

現在、小林市長は、自ら提案し、作った3期12年の多選自粛条例を
自ら破り、4期目への立候補を決めました。私は、これは市民を裏切る行為で、
市民にうそをついたと考えていますが、私は、それ以上に問題だと思っていることがあります。
それは、市長の『争点隠し』です。
私はこれまでも、中町2‐2地区に厚木市役所を移転することは問題であると指摘してきました。
厚木市新庁舎整備基本構想では、県施設を一体整備し、今後適正な場所に配置する施設として、厚木市消防本部(消防署)をあげています。
過日、1月5日の厚木市賀詞交換会では、今後の主な厚木市の事業について示しましたが、この厚木市役所の移転と
厚木市消防本部の機能配置については、全く触れられませんでした。
現状に至るまで、私は、市長の口から説明を聞いていません。
平日の朝夕、週末土日を問わず、慢性的に渋滞をしている本厚木駅前、バスロータリーの横に厚木市消防本部の機能を移転することは、
問題であると考えています。
支署も含めて、厚木市では45分に一回、救急車が出動していますし、つい先日も厚木北地区で、火災も発生しました。
市内で最も浸水に弱いエリアで、渋滞が日常化しているエリアに厚木市役所や厚木市消防本部を移転させることは、災害時、市民の命にかかわる重大なことです。
市長は、選挙戦を通じて、市民に対し、しっかりと説明をするべきと考えています。

世代交代「厚木のかさぶたを剥がす」

=世代交代「厚木のかさぶたを剥がす」=

もう数か月で平成が終わります。平成の時代は、昭和を引きずった30年間でした。
私は、今回の厚木市長選挙への立候補を表明しましたが、私が立候補しなければ、私たち親の世代3名による市長選となりました。

「色を重ねると黒くなる」と言いますが、私は、世代交代を実現することで、「厚木のかさぶたを剥がしたい」と思っています。
厚木市には、30代40代のピカピカしている人材が沢山居ます。しかしながら、今は、市のトップが重たくて、全くものが言えません。
市長が世代交代することで、ピカピカの人材が台頭し、厚木市は生まれ変わります。

私は、厚木市の現状は衰退していると感じています。
市内で一番発展して賑やかな本厚木駅前ですら、元気がなく、若い人が買い物をしたくなるような店も少なく、一番街以外は、シャッター通り商店街で元気がありません。
厚木市の優れた点を挙げると、「都心まで1時間程度」と言われるだけで、市そのものの魅力が上がってきません。私は、活気のある町にしたいと心から思っています。

私はこれまでも、「常識にとらわれない」選挙活動、政治活動を行ってきました。新しい視点から、高齢者を町全体で受け入れる仕組みづくりを提案しています。毛利台団地、森の里団地、鳶尾団地といったオールドニュータウンに福祉と雇用と仕事を産む地域再生です。
応援して下さい。

第20回 星槎国際高等学校 入学式挨拶/4年まえ 2015/03/08 に公開のメッセージ

第20回 星槎国際高等学校 入学式挨拶(写真は、第19回 入学式挨拶)

二つ目の動画は、2015/03/08 に公開のメッセージです。

※ リクエスト頂きましたので、この動画を先頭にて公開しています。

亡母 榮子は、去る8月20日に 他界致しました。享年75歳。生前の御厚誼に改めて心より厚く御礼申し上げます。

亡母 榮子は、去る8月20日に 他界致しました。享年75歳でした。生前の御厚誼に改めて心より厚く御礼申し上げます。
通夜・葬儀ならびに告別式につきましても、8月24日・25日に執り行われ、無事、荼毘に付すことができましたことを報告させていただきます。

今はまだ、気持ちの整理ができていません。親兄弟と話し合い、今回は、家族葬に準ずる形で、近親者のみにて、葬儀を執り行うことと致しました。
藤沢から厚木に嫁いで50年が経つ母でありますので、生前お世話になっていた方も大変多くいます。この形式が、本当に良かったのかは、判りませんが、母には、私の仕事を含め、公私のない生活の中で、大変苦労をかけました。せめて、最後だけは、近しいもので見送りたいとの想いで、最後のわがままとさせて頂きました。
御理解いただきたいと思います。

以下は、親族を代表しての私のあいさつ文(概略)です。
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長男の知一でございます。
喪主である父に成り代わりまして、一言、ご挨拶を申し上げます。
本日は、御多忙中にもかかわらず、故・佐藤榮子の通夜式に、ご弔問いただきまして誠にありがとうございます。
母は、生前、ミシンを使って、自分の洋服を縫い上げたり、着物の着付けであるとか、うたを歌うことが、好きでありました。しかしながら、日常的には、これといった趣味もなく、ただ黙々と働いているといった人生でありました。
もっと好きな事をさせてやっていたらと、今更ながら後悔をしています。

思えば、長男としての私は、母には、苦労を掛け通しでありました。高校を卒業してすぐ、18歳で単身、海外へ渡り、その後、調理師とはなるものの、しっかりと家業を継ぐ決意もないまま、中途半端に働いていました。
その後、29歳の若さで市議会議員選挙に立候補したものの、落選し、30歳にして仕事を辞し、大学に進学するなど、母には、本当に苦労を掛けました。
それでも、どんな時も、母は、無条件に私の活動を精一杯、応援してくれました。
私が33歳で、市議会議員に初当選し、その後、35歳で妻と結婚をしたころから、母は、精神的にも、肉体的にも、体調を崩し始めました。私には、不相応なくらいの妻とであい、出来の悪い長男である私が、やっと自立するめども立ち、家を出て、手を離れたと安心したことで、それまで、無理に無理を重ねてきた身体が、悲鳴を上げたのだと思っています。
母と父がつくりあげた店は、弟が継承し、弟の子供たちも、もうすぐ社会にでるという矢先でもありました。
母が、体調を崩し、12年近くが経ちますが、その間、私たち夫婦は、2人の子供たちに恵まれました。
これからは、弟の子ども達を含め、母の孫たち4人の成長を見守ってもらいたいと強く、願っていました。

ここ数年は、母の体調も悪化し、心肺機能もさらに低下し、酸素ボンベを24時間、つける生活となりました。外出も可能でしたが、酸素ボンベを引きずっての外出となり、一泊二日の旅行ですら億劫になりました。
近頃では、近所への買い物、炊事・洗濯も含め、自宅での家事一切も、仕事から帰ってきた父親が、代わりに行うという生活でありました。今月行われた厚木市最大のお祭り、あつぎ鮎まつりの時には、私のオープニングテープカットとパレードを見るために、酷暑と言われるような非常に強い日差しの中、マンションの一階まで、降りてきて、私の姿を見に来てくれましたが、それ以外は、外出する気力も目に見えて、少なくなっていました。
そうした中、日常見える環境を少しでも変えてもらおうと、父と一泊二日の温泉旅行を計画していました。
業者さんに頼んで、酸素ボンベを事前に宿泊先の旅館に届けて頂く調整をしながら、計画をしたものです。

そんな矢先、母は、旅立ちました。今はまだ、気持ちの整理ができていません。親兄弟と話し合い、今回は、家族葬に準ずる形で、近親者のみにて、葬儀を執り行うことと致しました。
母が生前お世話になっていた方も多くいる中、この形式が、本当に良かったのかは、判りませんが、母には、私の仕事を含め、公私のない生活の中で、大変苦労をかけました。
せめて、最後だけは、近しいもので見送りたいとの想いで、最後のわがままとさせて頂きました。

最後になりましたが、皆様方にこれからも、故人、生前と変わりないご厚情を賜りますよう、心よりお願い申し上げます。
簡単でございますが、これをもちましてお礼の挨拶にかえさせて頂きます。
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20180820

 

8月5日、県議会同期だった国会議員の結婚式に参列しました。

8月5日、県議会同期だった国会議員の結婚式に参列しました。この友人は、私よりも一回り若く、政治経験も私よりだいぶ短い。
今回の結婚式で、私は、ひとつ気づかされたことがあります。私たち地方議員は「今の人は、議員は、誰がなっても一緒だ。と政治を諦めている。」と思っていたけれど、実は、政治を諦めていたのは「私達、政治に携わるものだったのではないのか。」ということです。

「政治家は、世の中のルールを変えられる存在。その力は、社会で苦しむ人、困っている人みんなの生活を良くするために使うべきだ」「負け組と呼ばれている人を勝ち組に出来るようにルールを変更したり、つくる事ができる」という彼の言葉はシンプルですが、日々現実と向き合う中で、もう一度、私が意識して行動するために必要な言葉だと強く認識しました。

中谷一馬君、友美さん、ありがとう。
そして、末永くお幸せに。